🏯🌸鎌倉時代から江戸時代まで🏰各時代の歴史の舞台!⚔️
平安遷都以来の長い歴史を刻む城南宮。鳥羽伏見の戦いや後鳥羽上皇の承久の乱のキッカケとなった場所として、日本の歴史において極めて重要な役割を果たしてきました。その歴史的な重みは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも触れられていました。鎌倉時代と明治時代のきっかけを作ったこの場所は、日本の歴史の舞台として重要な場所です。🌸🏰⚔️
城南宮
【住所】〒612-8459 京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7番地
【主祭神】城南大神(八千矛神、息長帯日売尊、国常立尊)
【札所】神仏霊場巡拝の道第83番
【創建】不詳。
(Wikipediaより)
※Geminiによる解説
歴史的な出来事
- 白河天皇が鳥羽離宮を造営し、城南宮はその一部となった。
- 後鳥羽上皇が承久の乱を起こす前に流鏑馬揃えを城南宮で行った。
- 鳥羽・伏見の戦いの主戦場となった。
- 孝明天皇が攘夷祈願のため行幸した。
史実
- 創建年代は不詳だが、平安遷都の際に創建されたとされる。
- 城南寺の鎮守社として創建されたともいう。
- 真幡寸神社を境内に取り込んだ。
- 本殿は1977年に焼失したが、翌年に再建された。
観光
- 方除の大社として知られる。
- 交通安全の神としても信仰されている。
- 7月には自動車の茅の輪くぐりが行われる。
- 美しい庭園「楽水苑」「花の庭」「平安の庭」「室町の庭」「桃山の庭」「城南離宮の庭」がある。
- 珍しい様式の「城南宮鳥居」がある。
城南宮を訪れる際の注意
- 城南宮は、京都市の中でも比較的観光客の少ない神社です。
- 静かに参拝したい方におすすめです。
白河上皇による鳥羽離宮造営(1087年)
城南宮は離宮の鎮守社となり、歴代天皇・上皇の崇敬を受ける。
1.院政の時代
白河上皇が鳥羽離宮を造営した1087年(応徳3年)は、院政と呼ばれる時代でした。院政とは、上皇が退位後も政治の実権を握る政治形態です。白河上皇は、鳥羽離宮を政治的拠点として、自身の権力基盤を強化しようとしました。
2.鳥羽離宮の規模
鳥羽離宮は、広大な敷地に造営された壮麗な離宮でした。寝殿造りの御殿や庭園、仏堂などが立ち並び、当時の貴族文化を象徴する存在でした。
3.造営の目的
白河上皇は、鳥羽離宮を政治的拠点としてだけでなく、自身の趣味や保養の場としても利用しました。また、仏教への信仰も篤かった白河上皇は、鳥羽離宮内に多くの仏堂を建立しました。
4.鳥羽離宮の影響
鳥羽離宮は、後の天皇や上皇の離宮造営に大きな影響を与えました。また、鳥羽離宮の庭園は、日本庭園の様式の一つである「寝殿造庭園」の代表的な例として知られています。
5.時代背景の詳細
- 政治: 藤原氏の摂関政治が衰退し、院政と呼ばれる時代が始まる。
- 経済: 荘園制度が発展し、貴族社会の富が集中する。
- 文化: 仏教文化が盛んになり、浄土教信仰が広まる。
- 社会: 武士階級が台頭し、武家政権への道が開かれる。
後鳥羽上皇による流鏑馬揃え(1221年)
武芸の奨励と神事として、盛大な流鏑馬が行われる。
1.時代背景
後鳥羽上皇による流鏑馬揃えが行われた1221年(承久3年)は、鎌倉時代初期にあたります。当時、政治の実権は武家である源氏に移り、天皇は象徴的な存在となっていました。しかし、後鳥羽上皇は武家政権への不満を抱き、皇権の復活を目指していました。
2.承久の乱
後鳥羽上皇は、流鏑馬揃えを軍事演習として利用し、武家に対する威嚇を試みました。しかし、そのことが鎌倉幕府の怒りを招き、承久の乱と呼ばれる戦乱へと発展します。結果は幕府軍の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐島へ流罪となりました。
3.流鏑馬揃えの意義
流鏑馬揃えは、武芸の奨励という側面だけでなく、政治的な意図も込められたイベントでした。後鳥羽上皇は、流鏑馬揃えを通して武家への対抗意識を示し、皇権の復活をアピールしようとしたのです。
4.流鏑馬の歴史
流鏑馬は、平安時代から行われていた武芸の一つです。馬上から矢を射る技術を競うだけでなく、神事として行われることもありました。後鳥羽上皇による流鏑馬揃えは、流鏑馬の歴史において重要なイベントの一つです。
5.文化への影響
流鏑馬は、武士の精神を育む武芸として、その後も盛んに行われました。また、文学や絵画などの題材としても取り上げられ、日本の文化に大きな影響を与えました。
明治維新
神仏分離令により、真幡寸神社に改称される。その後、城南宮の名前に戻る。
鳥羽伏見の戦い跡
1.鳥羽伏見の戦い
鳥羽伏見の戦いは、1867年(慶応3年)に勃発した戊辰戦争の最初の戦いです。薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍と、徳川慶喜率いる旧幕府軍が京都市伏見区周辺で衝突しました。
2.城南宮における戦い
城南宮は、新政府軍が陣を敷いた場所の一つです。12月19日、旧幕府軍は城南宮を目指して進撃し、新政府軍との激しい戦闘が繰り広げられました。
3.戦いの結果
戦いは新政府軍の勝利に終わり、旧幕府軍は大阪城へ撤退しました。この戦いは、明治維新を決定づける重要な戦役となりました。
4.城南宮に残る戦跡
城南宮境内には、鳥羽伏見の戦い跡を示す石碑や説明板がいくつか設置されています。
- 御香宮神社: 新政府軍が陣を敷いた場所。
- 西参道: 旧幕府軍が進撃してきた道。
- 赤池: 旧幕府軍と新政府軍が激戦を繰り広げた場所。
錦の御旗と城南の地
1.錦の御旗
錦の御旗は、明治維新の際に薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍が掲げた旗です。金地に赤い縦縞模様が描かれ、中央には「天誅」の文字が大きく書かれています。
2.城南宮と錦の御旗
1868年(慶応4年)1月4日、鳥羽伏見の戦い勃発前日、新政府軍は城南宮に錦の御旗を掲げました。これは、朝廷の権威を象徴するものであり、士気を高める効果がありました。
3.城南宮に残る錦の御旗
城南宮には、現在も当時の錦の御旗が保存されています。重要文化財に指定されており、毎年1月4日と5月3日に特別公開されています。
4.城南の地と明治維新
城南宮は、鳥羽伏見の戦いだけでなく、明治維新の舞台となった重要な場所です。
- 1867年(慶応3年)12月19日、鳥羽伏見の戦いが勃発。
- 1868年(慶応4年)1月3日、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍が京都御所に集結。
- 1月4日、新政府軍が城南宮に錦の御旗を掲げる。
- 1月5日、鳥羽伏見の戦いが新政府軍の勝利に終わる。
- 1月25日、明治天皇が京都御所に即位。
熊野詣出立の地
1.熊野詣
熊野詣は、平安時代から江戸時代にかけて盛んに行われた、熊野三山への参詣です。熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社からなり、古くから神聖な場所として信仰されてきました。
2.城南宮と熊野詣
城南宮は、熊野詣出立の地として知られています。平安時代後期には、白河上皇や鳥羽上皇が城南宮から熊野詣に出発しました。
3.城南宮に残る熊野詣の痕跡
城南宮には、熊野詣の痕跡を伝えるものがいくつかあります。
- 熊野遥拝所: 熊野三山を遥拝する場所。
- 祓戸神社: 熊野詣の前に身を清めた場所。
- 神馬舎: 熊野詣に用いた馬を奉納した場所。
4.城南宮と熊野三山の関係
城南宮と熊野三山は、深い関係があります。
- 城南宮の祭神である八幡神は、熊野三山の神々とも関係がある。
- 城南宮境内には、熊野三山から勧請された神々が祀られている。
現在: 方除けの神様として全国から信仰を集め、年間約100万人が参拝する。
城南宮の史実
本殿は国の重要文化財に指定されており、平安時代後期の建築様式をよく残している。
神苑「楽水苑」は、四季折々の花々が咲き誇り、心癒される空間が広がる。
毎年5月には例祭「城南祭」が開催され、流鏑馬や神輿渡御など、伝統行事を楽しむことができる。
観光
- 方除け: 人生における様々な節目や転機に、方除け祈願として参拝する。
- 自然: 境内は緑豊かで、四季折々の自然を楽しむことができる。
- 文化: 歴史ある建造物や伝統行事を通して、日本の文化に触れることができる。
その他
- 城南宮は、京都市内でも比較的空いている神社なので、ゆっくりと参拝したい方におすすめ。
- 境内には、茶屋や売店があり、休憩やお土産購入も楽しめる。
- 公式ホームページでは、最新情報やイベント情報を確認できる。
城南宮
鳥羽伏見の戦い跡
錦の御旗と城南の地
城南宮
城南宮 神苑 源氏物語 花の庭
菊水若水
熊野詣出立の地
斧川神社
真幡寸神社
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