⚔️🌉 戦国の舞台!古代から近代まで 歴史の交差点 🏰🌊

瀬戸の唐橋

🛡️ 壬申の乱、承久の乱など、様々な戦の歴史の主戦場となった瀬田の唐橋。交通の要所として日本の歴史に欠かすことのできない名所です。「急がば回れ」の語源にもなっているようですね。🌉🌟
🏇 戦国時代の息吹を感じる唐橋で、歴史の舞台に迫りましょう!⚓🗺️

瀬田の唐橋

【住所】滋賀県大津市唐橋町-瀬田1丁目

Wikipedia

※Geminiによる解説

歴史的出来事

  • 壬申の乱(672年):大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場
  • 藤原仲麻呂の乱(764年):孝謙上皇方が橋を焼いて恵美押勝を阻止
  • 治承・寿永の乱(1183-1184年):源義仲と源義経の合戦
  • 承久の乱(1221年):後鳥羽上皇と北条義時の軍勢が交戦
  • 建武の戦い(1336年):足利直義と名和長年の軍勢が交戦
  • 織田信長による架橋(1575年):初めて銅製の擬宝珠が設置
  • 明智光秀による焼失(1582年):本能寺の変後の混乱

史実

  • 古代から交通の要衝として重要な役割を果たしてきた
  • 日本三大橋の一つ
  • 多くの歌枕や文学作品に登場
  • 俵藤太のムカデ退治伝説の舞台
  • 「急がば回れ」のことわざの発祥の地

観光

  • 歴史を感じさせる美しい橋
  • 琵琶湖と瀬田川の雄大な景色
  • 擬宝珠や親柱などの見どころ
  • 周辺の史跡や寺社仏閣
  • 季節ごとの自然の美しさ
  • 遊覧船やレンタサイクルでの観光

その他

  • 2022年に大橋に右折レーンが設置
  • 周辺の渋滞が解消
  • 夜間ライトアップを実施

壬申の乱

1.決戦の地

瀬田の唐橋は、壬申の乱の最終決戦の地として知られています。天智天皇10年(672年)、大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子の間で争いが起こり、両軍は瀬田の唐橋で激突しました。

2.橋板を外した戦術

大友皇子側は、橋板を外して大海人皇子軍を待ち受けました。しかし、大海人皇子軍は、水馬や土嚢を使って川を渡り、大友皇子軍を破りました。

3.壬申の乱の終結

この戦いで敗れた大友皇子は自害し、壬申の乱は終結しました。瀬田の唐橋は、壬申の乱の勝敗を決定付けた重要な戦場となったのです。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)

1.最後の決戦場

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)は、奈良時代末期の764年に起きた反乱です。孝謙上皇と道鏡に反乱を起こした藤原仲麻呂(恵美押勝)は、近江国を目指して東海道を進軍しました。しかし、追討軍に追いつかれ、瀬田の唐橋で最後の決戦が行われました。

2.橋の占領

藤原仲麻呂は、瀬田の唐橋を占領することで、追討軍の進撃を阻止しようと考えました。しかし、追討軍は橋を焼き払い、藤原仲麻呂軍を撃破しました。

3.藤原仲麻呂の敗北

橋を失った藤原仲麻呂は、近江国へ逃れることができず、高島郡で自害しました。

4.歴史的影響

藤原仲麻呂の乱は、奈良時代の政治体制を大きく変えました。藤原仲麻呂の敗北によって、孝謙上皇と道鏡の権力は強まりましたが、その後、道鏡の失脚によって藤原氏勢力が再び台頭することになります。

治承・寿永の乱(源平合戦)

1.戦略上の要衝

瀬田の唐橋は、東海道と東山道を結ぶ重要な交通路であり、治承・寿永の乱においては、東国と京を結ぶ戦略上の要衝として重要な役割を果たしました。

2.木曽義仲軍の渡河

治承4年(1180年)、源頼朝に追われた木曽義仲軍は、京を目指して東海道を進軍していました。しかし、瀬田の唐橋は平氏軍によって守られており、渡河することができませんでした。そこで義仲軍は、橋板を外して川を渡る奇襲作戦を実行し、見事に成功しました。

3.源平合戦の転換点

この戦いは、源平合戦の大きな転換点となりました。義仲軍は京に攻め入り、平氏を都落ちさせました。しかし、その後義仲は頼朝の命により討たれ、源平合戦は最終的に源頼朝が勝利を収めました。

承久の乱

1.東西の戦線

承久の乱(1221年)において、瀬田の唐橋は東と西の戦線の境界線として重要な役割を果たしました。

2.東軍の勝利

東海道を進軍してきた北条泰時率いる東軍は、瀬田の唐橋で京方と激戦を繰り広げました。橋を巡る攻防戦の末、東軍は橋を制圧し、京方軍を撃破しました。

3.京方の敗北

この戦いで敗れた京方は、その後各地で敗退し、承久の乱は東軍の勝利に終わりました。

4.瀬田の唐橋の重要性

瀬田の唐橋は、承久の乱における東軍の勝利に大きく貢献しました。また、この戦乱によって、鎌倉幕府の権力はさらに強固なものとなりました。

建武の戦い

1.東西の決戦場

建武の戦い(1336年)において、瀬田の唐橋は東と西の決戦場となりました。

2.足利尊氏の勝利

足利尊氏率いる東軍は、東海道を進軍し、瀬田の唐橋で新田義貞率いる西軍と激戦を繰り広げました。東軍は橋を制圧し、西軍を撃破しました。

3.建武政権の崩壊

この戦いで敗れた新田義貞は、その後各地で敗退し、建武政権は崩壊しました。

4.瀬田の唐橋の重要性

瀬田の唐橋は、建武の戦における足利尊氏の勝利に大きく貢献しました。また、この戦乱によって、南北朝時代が幕開けしました。

観応の擾乱

1.南北朝時代の戦乱

観応の擾乱(1350年-1352年)は、南北朝時代の戦乱の一つであり、足利尊氏と弟の足利直義の対立が原因で起こりました。

2.東西の戦線

瀬田の唐橋は、観応の擾乱における東と西の戦線の境界線として重要な役割を果たしました。

3.南軍の勝利

正平6年/観応元年(1350年)、南朝方の軍勢が北朝方の軍勢を瀬田の唐橋で破り、京都へ進撃しました。

4.戦乱の長期化

しかし、その後南朝方の軍勢は京都を攻略できず、戦乱は長期化しました。

5.瀬田の唐橋の重要性

瀬田の唐橋は、観応の擾乱における南朝方の初期の勝利に貢献しました。しかし、戦乱全体の流れを変えるほどの決定的な戦役にはなりませんでした。

織田信長

1.交通の要衝

瀬田の唐橋は、東海道と東山道を結ぶ重要な交通路であり、当時、天下統一を目指す織田信長にとって重要な拠点でした。

2.天正3年の架橋

天正3年(1575年)、信長は従来の木橋から石橋に架け替えさせました。これは、軍事的な目的だけでなく、経済活性化や領内統治の強化も目的とされていました。

3.安土城へのルート

信長が築城した安土城への主要なルートの一つが瀬田の唐橋であり、信長は頻繁にこの橋を渡っていたと考えられます。

4.本能寺の変

天正10年(1582年)、信長は本能寺の変で家臣の明智光秀に謀殺されます。光秀は安土城を手に入れるために瀬田の唐橋を押さえようとしましたが、山岡景隆によって橋は焼き落とされ、光秀の軍は足止めされました。

5.歴史的影響

信長による瀬田の唐橋の架橋は、交通網の整備や経済活性化、領内統治の強化などに大きく貢献しました。また、本能寺の変における橋焼き落としは、歴史の流れを大きく変えた出来事と言えるでしょう。

関ヶ原の戦い

1.東西軍の分断

関ヶ原の戦い(1600年)において、瀬田の唐橋は東軍と西軍を分断する重要な役割を果たしました。

2.東軍の勝利

東軍は、徳川家康の命により、石田三成率いる西軍が瀬田の唐橋を渡るのを阻止しました。西軍は橋を渡ることができず、東軍は有利な状況で戦いを進めることができました。

3.西軍の敗北

橋を渡れなかった西軍は、小早川秀秋の裏切りもあり、敗北しました。

4.歴史的影響

関ヶ原の戦いは、江戸幕府の成立に繋がった重要な戦いです。瀬田の唐橋は、東軍の勝利に大きく貢献しました。

ビワイチ出発の地

瀬田の唐橋は、琵琶湖を一周するサイクリングコース「ビワイチ」の出発地点の一つとして知られています。

橋の東詰北側には、「ビワイチ出発の地」と書かれた記念碑が設置されています。

記念碑は、御影石製で縦1.4メートル、横1.2メートル。「ビワイチ出発の地 1周196キロ」と記されています。

ビワイチは、琵琶湖の周囲約196キロメートルを自転車で一周するコースです。

初心者から上級者まで楽しめるコースとして人気があり、毎年多くのサイクリストが挑戦しています。

瀬田の唐橋は、ビワイチのスタート地点として最適な場所です。

橋の上からは、美しい琵琶湖の景色を眺めることができ、これから始まるビワイチへの期待感を高めてくれます。

また、周辺には駐車場やトイレなどの施設も充実しており、ビワイチを始める前に準備を整えることができます。

ビワイチに挑戦する方は、ぜひ瀬田の唐橋からスタートしてみてはいかがでしょうか。

ビワイチは、長距離のサイクリングコースです。事前にしっかりと準備をしてから挑戦するようにしてください。

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