【藤井寺球場・河内】⚾あの熱狂が蘇る――思い出の“野茂vs清原”の記憶✨

藤井寺球場

東学生時代、よく野球を観に行っていた球場——
それが藤井寺球場でした⚾✨

当時は、阪神の甲子園球場や、オリックスとなったばかりの西宮球場もありましたが、自宅からの距離は同じくらいでしたが、一番通いやすかったのが藤井寺球場🏍️

原付バイクでふらっと行ける気軽さ。そして何より、優勝争いをしているのに、観客数がほどよく、のんびり野球を楽しめる空気感が好きでした😊

そんな藤井寺球場に、さらに足を運ぶきっかけとなったのが——
1990年、野茂英雄投手の入団🔥

特に楽しみだったのが、野茂 vs 清原和博の対決。

当時、絶対的な強さを誇っていた西武ライオンズを相手に、野茂投手がどんなピッチングを見せるのか。
清原選手との真っ向勝負を、球場で観る時間は本当にワクワクしました⚾✨

今では藤井寺球場はなくなってしまいましたが、久しぶりに藤井寺の地を訪れると、あの頃の歓声やナイターの空気まで思い出される気がします🌃

野球だけではなく、青春そのものが詰まった場所。藤井寺は、そんな“思い出の球場”でした⚾✨

藤井寺球場 記念モニュメント

【住所】〒583-0026 大阪府藤井寺市春日丘3丁目1−78

(Wikipedia)

※Geminiによる解説

かつて大阪府藤井寺市に存在し、熱狂的なプロ野球ファンに愛された「藤井寺球場」。2005年の閉鎖、その後の解体を経て、現在は学校や住宅地へと姿を変えていますが、今なお野球史に燦然と輝く名スポットです。

1. 藤井寺球場の歴史:史実に基づいた有名な出来事

1928(昭和3)年に開場した藤井寺球場は、甲子園球場や明治神宮野球場に次ぐ非常に長い歴史を持っていました。戦後はパ・リーグの個性派球団「近鉄バファローズ(旧:近鉄パールスなど)」の本拠地として、数々のドラマを生み出しました。

  • 「大鉄傘」の供出とグラウンドの芋畑化(戦時中の苦難) 戦前は最新鋭のバックネット裏の鉄製大屋根(大鉄傘)を誇っていましたが、太平洋戦争中の1943年、金属類回収令によって供出され解体されました。さらに食糧難からグラウンドはサツマイモや大豆の「畑」へと開墾され、スタンド下は軍の食糧倉庫になるという、激動の時代を生き抜いた歴史があります。
  • 「カクテル光線」を巡る10年以上のナイター訴訟 近鉄の本拠地でありながら、長らく夜間照明(ナイター設備)がありませんでした。1970年代初頭にナイター設置計画が持ち上がった際、閑静な周辺住宅地への光害や騒音、観客のゴミ問題を懸念した周辺住民から猛烈な反対運動が起こり、裁判へと発展。このため、近鉄は夏の夜間主催試合を「日生球場」や「大阪球場」を借りて行うねじれ現象が続きました。和解を経て、待望のナイター設備(当時最新のまぶしさを抑えたカクテル光線照明)が灯ったのは、計画から11年が過ぎた1984年のことでした。
  • エース・鈴木啓示投手の通算300勝達成(1984年) ナイター設備が完成したまさにその1984年5月5日、近鉄の大エースである鈴木啓示投手が、この藤井寺球場で通算300勝を達成しました。歴代の上位3人(金田氏、米田氏、小山氏)は、現役後半に複数球団を渡り歩いて記録を達成しています。しかし鈴木投手は、当時の弱小球団と言われた近鉄バファローズ一筋で、その大記録を達成しました。さらに、鈴木投手より上位のピッチャーは全員「戦前(1930年代〜40年代前半)生まれ」です。過酷な登板シフトが当たり前だった時代にデビューした先輩たちとは違い、戦後の新しいプロ野球の歴史の中で300勝を超えたのは鈴木投手だけという前人未踏の大記録でした。
  • 10.19の翌年、涙のリーグ優勝と「唯一の日本シリーズ」(1989年) プロ野球史に残る伝説の死闘「10.19」(1988年・川崎球場でのダブルヘッダー)で惜しくも優勝を逃した近鉄は、翌1989年に見事リーグ優勝を果たします。この年の読売ジャイアンツとの日本シリーズ(近鉄が3連勝した後に4連敗した激闘)は、藤井寺球場の歴史のなかで最初で最後に行われた日本シリーズとなりました。巨人の藤田監督が歓喜の胴上げをされたのも、この藤井寺のマウンド上でした。
  • 「平成の怪物」野茂英雄の衝撃デビュー(1990年) トルネード投法で日米を震撼させた野茂英雄投手がプロ生活をスタートし、その凄まじい奪三振ショーで藤井寺のファンを熱狂させました。

2. 観光としての魅力

現在の球場跡地は「四天王寺小学校・四天王寺東中学校・高等学校」の広大なキャンパスとマンションになっており、当時のスタンドや外野フェンスといった建物自体は残っていません。しかし、「野球の聖地巡礼」「昭和ノスタルジー」、そして「周囲の歴史遺産とのセット観光」として、今でも訪れる価値のある魅力的な場所です。

  • 記念モニュメント「白球の夢」の巡礼 かつての球場正門近く、現在の学校敷地東側の道路沿いに、藤井寺市・近鉄・学校が共同で建立したブロンズ像の記念モニュメント「白球の夢」が設置されています。台座には近鉄バファローズの歴史や球場の歩みが刻まれており、かつてここで歓声をあげたファンや、往年のパ・リーグの雰囲気を慕う野球ファンが今も絶えず訪れる聖地となっています。
  • 古き良き「近鉄南大阪線」の風情を味わう 最寄り駅である近鉄南大阪線「藤井寺駅」からすぐの線路沿いに球場がありました。駅周辺には、かつて試合前後にファンが立ち寄った飲食店や、どこか懐かしい昭和の面影を残す街並みが広がっており、ノスタルジックな散策を楽しめます。
  • 世界遺産「古市古墳群」との歴史ワンダー散策 藤井寺市は、お隣の羽曳野市とともに世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」を擁する歴史の街です。球場跡地(記念モニュメント)から徒歩圏内には、日本で3番目に大きい巨大前方後円墳「誉田御廟山古墳(応神天皇陵)」や「仲哀天皇陵古墳」などの巨大古墳群が点在しています。 「昭和のプロ野球の熱気」に思いを馳せた後、そのまま「古代ロマンの地」へとシームレスにウォーキングできるルートは、藤井寺ならではの非常にユニークな観光の魅力と言えます。

かつての熱気は静かな文教地区へと形を変えましたが、モニュメントの前に立つと、当時の打球音や応援歌が聞こえてくるような不思議な情緒がある場所です。

近鉄バファローズ

藤井寺球場と近鉄バファローズ(以下、近鉄)の関係は、一言で表すなら「相思相愛でありながら、長くすれ違いを続けた、不器用で熱い家族」のような関係です。

1950年の球団創設から、2004年の球団消滅(オリックスとの合併)までの55年間、近鉄にとって藤井寺球場は「我が家」であり、チームの泥臭くも熱いキャラクターそのものを形作った場所でした。

1. 創設からずっと「我が家」だった(でも夜は帰れない)

近鉄バファローズ(当時は近鉄パールス)がプロ野球に参入した1950年から、藤井寺球場は一貫して近鉄の持ち物(親会社が所有する球場)であり、本拠地でした。

しかし、前述の通り「周辺住民とのナイター裁判」があったため、1958年から1983年までの26年間もの間、一軍の公式な本拠地(登録上の本拠地)を別の球場(日生球場など)に移さざるを得なかったという悲しい歴史があります。

  • 昼だけの我が家: 当時は、春先や秋口の「デーゲーム(昼間の試合)」だけ藤井寺に帰り、夏の「ナイター(夜間の試合)」はよその球場を借りて試合をしていました。
  • 二軍の育成の地: 一軍が留守にしている間も、二軍の練習場・試合会場としてはずっと藤井寺が使われていました。後にメジャーで大活躍する野茂英雄投手や、数々のスラッガーたちが、この藤井寺の土にまみれて育ちました。

親会社の球場なのに夜は試合ができないーー。このもどかしい関係が長年続いたからこそ、近鉄ファンと選手にとって藤井寺球場は、どこか愛おしく、特別な執着を持つ場所になっていきました。

2. バファローズの「泥臭く、豪快なプレースタイル」を育てた環境

藤井寺球場は、近鉄バファローズの最大の武器であった「いてまえ打線(※)」と呼ばれる、圧倒的な攻撃野球を育んだ聖地です。

※「いてまえ」とは大阪弁で「やってしまえ」「やっつけてしまえ」という意味。

球場の構造が、近鉄のチームカラーに大きな影響を与えていました。

  • ホームランが出やすい狭い球場: 藤井寺球場は、日本のプロ野球の本拠地の中でも「両翼91m、中堅120m」と非常に狭く、おまけにラッキーゾーン(外野フェンスを前にせり出させたエリア)もありました。そのため、とにかくホームランが出やすい球場でした。
  • ノーガード戦法の誕生: バンバン打球がスタンドに入るため、近鉄は「細かい戦術で1点を守る」よりも「取られたら、それ以上にホームランで打ち返す!」という、豪快でバブリーな野球スタイルを確立していきました。

鈴木啓示投手のストレート勝負、バファローズの看板打者だったブライアント選手が放つ超巨大なホームランなど、藤井寺の狭さと熱気が、パ・リーグ特有の「荒々しくも魅力的な野球」をブーストさせていたのです。

3. 1984年、ついに「本当の我が家」へ

1984年、11年に及ぶ裁判と交渉を経て、ついに藤井寺球場に照明設備が完成します。近鉄は26年ぶりに、名実ともに藤井寺球場を「一軍の本拠地」として復帰させました。

ここから、藤井寺球場と近鉄の黄金コンビが本領を発揮します。 それまで分散していたファンが「夜も藤井寺で近鉄が見られる!」と一気に集結し、スタンドは独特の熱気(ヤジの激しさと、それに負けない温かい一体感)で包まれるようになりました。

1989年のリーグ優勝時には、手狭な藤井寺球場を真っ赤な応援メガホンを持ったファンが埋め尽くし、地鳴りのような歓声が藤井寺の街に響き渡りました。

まとめ:近鉄にとっての藤井寺球場とは

近鉄バファローズは、2004年のシーズンを最後に、球界再編の中でその歴史に幕を閉じました。そして、主を失った藤井寺球場も、翌2005年にその役割を終えました。

近鉄バファローズという球団は、歴史上、一度も日本一(日本シリーズ制覇)になったことがない唯一の消滅球団です。 しかし、だからこそ、あの狭くて、どこか泥臭くて、ファンと選手の距離が異様に近かった「藤井寺球場」で、あと一歩届かなかった夢を追いかけ続けた記憶は、プロ野球ファンの間で「伝説」として今も語り継がれています。

藤井寺球場と近鉄バファローズは、「不器用だけど最高にドラマチックだった、昭和・平成のパ・リーグの青春そのもの」という一蓮托生の関係だったと言えます。

最寄り駅>>近鉄藤井寺駅

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