
大分市にある城跡といえば、真っ先に名前が挙がるのが府内城🏯
そして、大分を代表する戦国武将といえば、やはり大友宗麟です。
大友宗麟といえば、九州を代表する戦国大名であり、キリシタン大名として日本史の教科書にも登場する有名人。
そのため私は長い間、「大分の府内城=大友宗麟の城」だと、完全に思い込んでいました😅
ところが府内城について調べてみると、驚きの事実が!
府内城が築かれたのは、大友宗麟が亡くなった後だったのです。
「えっ、宗麟の城じゃなかったの?」
これはかなり意外でした。
大友氏は豊後国を長く支配していましたが、大友氏の時代に拠点としていたのは、現在「大友氏館跡」として残る場所など。
現在の府内城は、大友氏がこの地を去った後、福原直高によって築城が始められ、その後、竹中重利によって整備された城でした。
同じ大分市に「大友宗麟」と「府内城」という有名な歴史スポットがあるので、勝手に頭の中で結びつけてしまっていたんですね。
これも実際に訪れて歴史を調べたからこそ分かったことです😊
現在の府内城跡には天守閣は残っていません。
それでも、石垣や櫓、堀などが残り、かつてここに立派な城があったことを感じさせてくれます。
そして面白いのが、その立地。
すぐそばには大分県庁と大分市役所があります。
かつて政治の中心だった城の周辺が、現在も大分の行政の中心になっていると考えると、何とも興味深いものがあります。
戦国・江戸時代の府内城から、現代の県庁・市役所へ――。
時代は変わっても、この場所が大分の中心であり続けているように感じました。
そして今回一番の収穫は、やはり、「府内城=大友宗麟の城ではない!」という長年の思い込みが解けたこと。
史跡巡りをしていると、知っているつもりだった歴史が現地でひっくり返ることがあります。
それもまた、旅の面白さですね😊
天守はなくても、大分の歴史と現在をつなぐ府内城跡。
大分市の中心に残る、まさに街の歴史を象徴する城跡でした🏯✨
府内城跡
【住所】〒870-0046 大分県大分市荷揚町1−2−1
※Geminiよる解説
府内城跡(荷揚城 / 大分城址公園)
- 場所: 大分県大分市荷揚町4
- 指定等: 日本100名城、大分県指定史跡
歴史:史実に基づいた出来事
- 豊臣秀吉の命による築城開始(1597年〜)キリシタン大名・大友氏の改易後、豊臣秀吉の配下で石田三成の妹婿でもあった福原直高(ふくはらなおたか)が築城に着手しました。当初この地は「荷落(におとし)」と呼ばれていましたが、縁起が悪いとして「荷揚(にあげ)城」へと改名されました。
- 竹中重利による大改修と城下町の完成関ヶ原の戦い後に入封した竹中重利(軍師・竹中半兵衛の従兄弟)が本格的に城郭や四重天守、城下町を整備し、名も「府内城」と改められました。
- 大火と地震による天守焼失1743年(寛保3年)の大火で天守をはじめ多くの建物が焼失しました。以降、天守が再建されることはありませんでしたが、幕末まで譜代大名の大給松平氏(おぎゅうまつだいらし)が藩主を務めました。
- 空襲を乗り越えた現存遺構明治維新後に城内へ大分県庁が置かれたため「大分城」とも呼ばれました。太平洋戦争中の大分空襲で多くの復元建物が失われましたが、江戸時代の遺構である「人質櫓」と「宗門櫓」の2つは焼失を免れ、今に伝えられています。
観光としての魅力
- 全国的にも珍しい「木造復元 廊下橋」山里丸と西の丸を結ぶ廊下橋(屋根がついた壁付きの橋)が古絵図をもとに木造復元されています。当時は要人や城主のみが通行した特別な橋で、内部を歩くと江戸時代の雰囲気を体感できます。
- 水に浮かぶ名城「水城」の景観北側が海に面していたことから水運を利用した構造になっており、美しく白い壁と水堀に映える姿から「白雉城(はくちじょう)」の別名を持ちます。現在も広大な水堀と重厚な石垣が綺麗に残っており、水辺の散策に最適です。
- 大分市屈指の「桜の名所」春になると約65本のソメイヨシノが一斉に咲き誇ります。石垣や堀の水面に映える桜の景色が美しく、夜間ライトアップも実施される市民憩いの花見スポットです。
- アクセスの良さと天守台からの眺望JR大分駅から徒歩15分ほどとアクセスが非常に良好です。天守台の上まで登ることができ、かつての城内広場や周辺の現代的な街並みを一望できます。
府内城と大友宗麟
大友宗麟(おおともそうりん)と府内城(ふないじょう)の関係を一言でいうと、「府内城は、大友宗麟の死後に建てられた城」です。
「大友宗麟の城=府内城」と思われがちですが、実は直接の関わりはありません。
1. なぜ「宗麟の城」と勘違いされやすいのか?
- 地名が同じ「府内」だから宗麟が治めていた時代のこの地域一帯(現在の大分市中心部)も「府内」と呼ばれていました。
- 拠点が目と鼻の先にあるから宗麟の館(大友氏館)があった場所と、後に建てられた府内城跡は徒歩10分程度の近さに位置しています。
2. 時代と拠点の違い
宗麟が生きた戦国時代と、近世城郭である府内城とでは拠点のかたちが大きく異なります。
| 項目 | 大友宗麟の拠点(大友氏館) | 府内城(荷揚城) |
| 築城・所有者 | 大友氏(宗麟など) | 福原直高・竹中重利 |
| 誕生時期 | 戦国時代 | 宗麟の死から10年後(1597年〜) |
| 構造の特徴 | 巨大な「館」(豪華な庭園・国際色豊かな館) | 天守や重厚な石垣を持つ「本格的な城」 |
| 現在の場所 | 大友氏館跡(南蛮BVNGO交流館周辺) | 大分城址公園 |
3. 歴史の流れ(宗麟から府内城誕生まで)
- 大友宗麟の全盛期(館の時代)宗麟は天守を持つような「城」ではなく、平地にある広大な「大友氏館」を拠点として、中国・明やポルトガルとの貿易を展開し、南蛮文化の花を開かせました。
- 大友氏の没落(改易)宗麟の死後、跡を継いだ息子の大友義統(よしむね)が豊臣秀吉の怒りを買い、1593年に領地を没収(改易)されて大友氏は豊後の地を追われました。
- 府内城の誕生大友氏が去った後、秀吉の命で新しく豊後に入った福原直高が、港に近い「荷揚(にあげ)」の地に新しく築き始めたのが「府内城」です。
観光で散策する際のアドバイス
大分市内で「大友宗麟の歴史」と「近世の城郭建築」のどちらも楽しみたい場合は、以下の2箇所をあわせて巡るのがおすすめです。
- 大友氏館跡(南蛮BVNGO交流館): 宗麟が実際に暮らし、国際貿易やキリシタン文化の中心地となった場所。
- 府内城跡(大分城址公園): 宗麟の退場後、江戸時代にかけて発展した立派な石垣や水堀が残る城跡。
大友宗麟と大友家
大友宗麟(おおとも そうりん)と大友家は、鎌倉時代から戦国時代にかけて約400年もの間、九州(豊後国・現在の大分県を中心)を支配した名門武家です。
戦国時代には九州の大部分を抑える最大勢力を築きましたが、キリスト教への傾倒や激しい勢力争いにより、ドラマチックな繁栄と衰退を経験しました。
1. 大友家とは?(鎌倉から続く九州の名門)
- 起源は鎌倉幕府の御家人 もともとは相模国(神奈川県)出身で、源頼朝から豊後国(大分県)の守護(地域を治める長官)に任命されたことから九州に根を張りました。
- 九州を代表する「守護大名」へ 名門としての格式が高く、室町時代から戦国時代にかけて大内氏や島津氏と並び、九州の覇権を争う存在へ成長していきました。
2. 大友宗麟(義鎮)とはどんな人物?
大友家第21代当主で、大友家の歴史上「最も繁栄させ、最も波乱に満ちた人生を送った男」です。
- 六ヶ国を支配する「九州の覇王」 豊後(大分)、豊前(福岡東部)、筑前(福岡西部)、筑後(福岡南部)、肥前(佐賀・長崎)、肥後(熊本)という九州北部〜中部の6ヶ国を支配下に収め、大友家の最大版図を築きました。
- キリシタン大名としての顔 キリスト教(南蛮文化)に強い関心を持ち、宣教師ザビエルらを温かく受け入れました。自身も「ドン・フランシスコ」という洗礼名を持つキリシタンとなり、南蛮貿易によって鉄砲や大砲(国崩し)などの最新兵器や医学・音楽を取り入れました。
- 理想の王国を目指した野望 キリスト教の教えに基づく理想郷(無垢なる王国)を日向(宮崎県)に作ろうと夢見ましたが、これが後の家臣団の分裂や衰退の引き金にもなりました。
3. 大友家の繁栄と衰退のドラマ
【全盛期】南蛮貿易と文化の華開く時代
宗麟の拠点であった大友氏館(府内)には、ポルトガルや中国の商人、宣教師が行き交い、当時の日本で最も国際色豊かで華やかな城下町が作られました。
【暗雲】耳川(みみがわ)の戦いでの大敗(1578年)
日向国(宮崎県)に進攻した大友軍は、薩摩(鹿児島県)の強豪・島津氏と激突。この耳川の戦いで多くの有力な家臣(立花道雪のライバルたちや重臣層)を失い、大友家の勢力は一気に衰退へと向かいます。
【没落】豊臣秀吉へのSOSと改易
島津氏に追い詰められた宗麟は、単身で大坂へ向かい豊臣秀吉に助けを求めました。秀吉の「九州平定」により命脈は保たれ、宗麟はその直後(1587年)に病死します。
しかし、跡を継いだ息子の大友義統(よしむね)が、文禄の役(朝鮮出兵)で敵の前から逃亡したという不覚を取り、秀吉の怒りを買って領有権を没収(改易)。名門・大友家は戦国大名としての歴史に幕を閉じました。
4. 大友家を支えた名将たち
大友宗麟の陰には、非常に優秀な家臣(武将)が存在していました。
- 立花道雪(たちばな どうせつ) 「雷切(らいきり)」という名刀の伝説で知られる大友家最強の武将。衰退する大友家を最後まで頑固に支え続けました。
- 高橋紹運(たかはし じょううん) 岩屋城の戦いにて、わずか700の兵で島津軍5万を相手に絶望的な城籠もりを行い、全員討ち死にするまで戦い抜いた忠義の将。
- 立花宗茂(たちばな むねしげ) 高橋紹運の実子で、立花道雪の養子となった天才武将。後に秀吉から「九州の一無双」と絶賛されました。
まとめ
大友宗麟と大友家は、「海外への広い視野と先進性を持った一族」であり、大分という地に豊かな国際文化をもたらしました。その華やかな文化遺産は、現代の大分市の街並みや歴史に今も深く息づいています。


府内城跡














