【寛永寺・東京】⛩️徳川家のもう一つの菩提寺!江戸と比叡山の深いつながり✨

寛永寺

徳川家の菩提寺として知られる寛永寺⛩️✨

名前は以前から知っていたものの、なかなか訪れる機会がなく、今回ようやく参拝することができました😊

実際に訪れて驚いたのは、その成り立ちに込められた壮大な構想です。
寛永寺は、単なる大寺院ではなく、比叡山延暦寺を意識して創建された寺院とのこと📜✨

さらに、現在の上野公園周辺は、かつては琵琶湖を模した不忍池を含む広大な寺域だったと知り、
江戸の町づくりにおけるスケールの大きさを改めて感じました🌿

そして、徳川家の菩提寺といえば増上寺も有名です。
名前だけは知っていても、その違いや役割まではよく理解していませんでしたが、実際に訪れることで「なるほど、こういう位置付けだったのか」と新たな発見がありました✨

歴史の知識として知っているのと、実際にその場所に立つのとでは大違い。
現地を訪れることで、教科書や本の中の話が一気に立体的になります😊

寛永寺は、徳川家の歴史だけでなく、江戸の都市計画や当時の人々の思想まで感じさせてくれる、奥深いお寺でした⛩️✨

寛永寺

【住所】〒110-0002 東京都台東区上野桜木1丁目14−11

【宗旨】天台宗
【山号】東叡山
【本尊】薬師如来(秘仏、重要文化財)
【開基】徳川家光
【開山】天海
【創建年】寛永2年(1625年)

Wikipedia

※Geminiによる解説

徳川将軍家と深い繋がりを持ち、かつては現在の上野恩賜公園のほぼ全域を境内としていた天台宗の別格大本山「東叡山 寛永寺(とうえいざん かんえいじ)」。

1. ご利益

寛永寺に参拝する際は、身体健全病気平癒(特に目や心の病気)、そして厄除け・開運を祈願するのがおすすめです。

  • 本尊・薬師如来(無病息災・病気平癒)本尊の薬師如来は「お医者様の仏様」です。心と体の病気を癒やし、現世に安らぎを与えてくれるとされています。
  • お大師様・慈眼大師(厄除け・開運)寛永寺を開山した天海大僧正(慈眼大師)と、天海が深く崇敬した良源(元三大師)が祀られており、厄除けや諸願成就の強いパワースポットとしても知られています。

2. 寛永寺の歴史と有名な出来事

寛永寺の歴史は、江戸幕府の安泰と深く結びついています。京都の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)をモデルに、江戸の街を霊的に守る要として築かれました。

年代出来事・由緒
1625年(寛永2年)徳川家康・秀忠・家光の3代にわたり深く信頼された天海大僧正によって創建される。年号をとって「寛永寺」と命名。
江戸時代中期4代家綱、5代綱吉をはじめ、歴代の徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)の将軍が埋葬され、徳川家の菩提寺として全盛期を迎える。
1868年(慶応4年)戊辰戦争(上野戦争)の舞台となる。彰義隊(旧幕府軍)が寛永寺に立てこもり、新政府軍と激突。大砲などの砲撃により、根本中堂をはじめとする主要な堂宇の大半が焼失した。

「東叡山」の由来

京都の北東(鬼門)を守るのが「比叡山」であるのに対し、江戸城の北東(鬼門)を守るために建てられたことから、“東の比叡山”という意味で「東叡山」という山号がつけられました。上野の山に「不忍池(しのばずのいけ)」があるのも、京都の琵琶湖に見立てて天海が築いたものです。

3. 観光する上での魅力

現在の上野公園一帯に広がっていたかつての広大な境内は、戦争や区画整理を経て形を変えましたが、今でも上野のあちこちに歴史の面影を残す見どころが点在しています。

① 格式高い「根本中堂」と徳川家ゆかりの地

現在の根本中堂(本堂)は、明治時代に川越の喜多院から移築されたものです。境内には、篤姫(天璋院)や13代将軍・家定が眠る「徳川将軍家霊廟」があります(通常非公開・特別参拝日あり)。

② 上野公園内に点在する重要文化財

上野公園を散策しながら、かつての寛永寺の建造物を巡るのが王道の観光ルートです。

  • 清水観音堂(重要文化財):京都の清水寺を模して建てられた舞台造りのお堂で、見事な「月の松」から不忍池を見下ろせます。
  • 旧寛永寺五重塔(重要文化財):現在は上野動物園の敷地内にそびえ立っています。

上野の美術館や動物園を訪れる際に、江戸の幕開けと終焉を見届けてきたこの寺の歴史の息吹を感じてみてはいかがでしょうか。

御本尊:薬師如来

寛永寺における御本尊「薬師如来(やくしにょらい)」は、単に信仰の対象というだけでなく、「江戸という都市の誕生」や「徳川将軍家の命運」とダイレクトに結びついた、非常に特別で深い関係性を持っています。

1. 寛永寺と薬師如来の「深い関係性」

寛永寺の御本尊が薬師如来である理由は、寛永寺が「東の比叡山(東叡山)」としてデザインされたことに由来します。

① 総本山・比叡山延暦寺のDNAを継承

寛永寺を開いた天海大僧正は、京都の「比叡山延暦寺」をモデルにして上野の山を設計しました。

延暦寺の総本堂である根本中堂の御本尊は、最澄が自ら刻んだと伝わる「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」です。そのため、江戸に作られた寛永寺の根本中堂にも、同じく天台宗の最も核心的な仏様である「薬師如来」が御本尊として迎えられました。

② 天皇から下賜された「前立本尊」の存在

寛永寺の根本中堂に安置されている薬師如来像(御本尊)は秘仏(通常は見られない仏様)ですが、その前に立つ「前立本尊(まえだちほんぞん)」には特別な歴史があります。 この像は、東山天皇の皇子であり、寛永寺の住職(輪王寺宮)となった公辨法親王(こうべんほっしんのう)が、元禄時代に京都の御所内から拝領(朝廷から譲り受けた)したものです。

【歴史的意味】

徳川幕府が建てたお寺でありながら、天皇家(朝廷)との深い絆を示す仏様が御本尊の前に据えられている。これは寛永寺が幕府と朝廷の架け橋であり、国家レベルの平穏を祈る場所であった証拠です。

③ 「病」に倒れた徳川将軍たちの祈り

江戸時代、徳川家にとって薬師如来は「最も頼るべき医療の仏」でした。

当時、不治の病と恐れられた「脚気(かっけ)」や「天然痘(てんねんとう)」、あるいは大病を患った歴代将軍やその正室(篤姫など)は、寛永寺の薬師如来に病気平癒を祈り、快復を願いました。実際に、寛永寺に眠る6人の将軍たちの篤い信仰に支えられてきた仏様なのです。

2. 薬師如来がもたらす「具体的な御利益」

薬師如来は、正式には「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」と呼ばれ、東方の清らかな世界(浄瑠璃世界)から私たちを見守る、仏教界のチーフドクター(お医者様)のような存在です。

他の仏様(阿弥陀如来など)が「亡くなった後の世界(来世)」での救済を説くのに対し、薬師如来は「いま生きているこの世界(現世)」での苦しみを取り除くことを最優先してくれます。

寛永寺の薬師如来に参拝する際は、次のような事をお願いすると良いとされています。

御利益の種類具体的な内容・お願いのポイント
身体健全・無病息災病気をせず、健康な体で毎日を過ごせるよう見守ってくれます。
病気平癒(特に目・心)すでに患っている病気や怪我の快復。東洋医学において薬師如来の放つ瑠璃色の光は「眼病」や「心の曇り・ストレス」を癒やすと信仰されてきました。
現世安穏(げんせあんのん)経済的な困窮や衣食住の不安など、現実生活におけるリアルな苦しみから救い出し、穏やかな生活をもたらします。
延命長寿寿命を延ばし、天寿を全うできるよう力を貸してくれます。
💡 参拝時のワンポイント

寛永寺の根本中堂に参拝された際は、御本尊に向かって「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」という薬師如来の真言(おん言)を心の中で唱えてみてください。

これは薬師如来に直接届く言葉とされており、現世の不安や病の苦しみを取り除き、心に大きな「安らぎ」を与えてくれると言われています。上野の豊かな緑に囲まれた静寂な本堂で、江戸の歴史を五感で感じながら、日々の健康を祈願してみてはいかがでしょうか。

徳川家

寛永寺と徳川将軍家は、単なる「お寺と檀家」という関係をはるかに超え、「江戸幕府の運命を共にする、公私ともに最大のパートナー」でした。

徳川家にとって寛永寺は、江戸という都市を霊的に守る要塞であり、一族の魂が眠る聖地であり、そして幕末に徳川の歴史が幕を閉じる終焉の舞台でもありました。

1. なぜ建てられた?「江戸城の鬼門(北東)を守る聖壁」

寛永寺の始まりには、初代将軍・徳川家康、2代秀忠、3代家光の3代にわたって軍師・アドバイザーとして活躍した最高僧「天海(てんかい)大僧正」が深く関わっています。

当時、風水や陰陽道に基づいた都市計画が進められていた江戸において、江戸城から見て「北東」の方角は、災いが入ってくる「鬼門(きもん)」として最も恐れられていました。

そこで、3代将軍・徳川家光が天海に命じ、1625年(寛永2年)に上野の山に建てさせたのが寛永寺です。

京都の朝廷が「比叡山延暦寺」によって北東の鬼門を守られていた国家平穏のシステムを、徳川家はそのまま江戸に再現したのです。

2. 歴代将軍15人のうち「6人」が眠る、特別な菩提寺

徳川家の菩提寺(お墓があるお寺)といえば、港区の「増上寺(ぞうじょうじ)」も有名ですが、寛永寺はその増上寺と人気を二分する、あるいはそれ以上の格式を持つ聖地となりました。

全15人の将軍のうち、実に6人の将軍がこの寛永寺の広大な霊廟に埋葬されています。

寛永寺に眠る徳川将軍時代背景・エピソード
4代 将軍:家綱(いえつな)彼の埋葬を機に、寛永寺は徳川家の正式な菩提寺として定着しました。
5代 将軍:綱吉(つなよし)生類憐れみの令で有名。寛永寺の根本中堂を大規模に造営しました。
8代 将軍:吉宗(よしむね)享保の改革の主導者。「これ以上霊廟にお金をかけるな」と遺言し、合祀(建物を建てず既存の霊廟に一緒に眠る)の先駆けに。
10代将軍:家治(いえはる)田沼意次を重用した時代。
11代将軍:家斉(いえなり)徳川家の中で最も長い50年間も将軍在職し、文化・文政の黄金期を築く。
13代将軍:家定(いえさだ)激動の幕末の将軍。正室である**篤姫(天璋院)**も、夫である家定のすぐ隣で一緒に眠っています。

なぜ菩提寺が2つ(増上寺と寛永寺)に分かれたの?

もともとは増上寺が優勢でしたが、4代家綱が寛永寺に葬られたことでバランスが変わりました。その後、6代綱吉が増上寺に葬られたため、時の幕府は**「不公平にならないよう、これからは交互に埋葬しよう」**というルールを作りました。そのため、2つの寺に綺麗に将軍の墓が分かれているのです(※最後の将軍・慶喜を除く)。

3. 幕末、徳川の「栄華」と「終焉」を見届けた場所

寛永寺と徳川家の関係を語る上で、避けて通れないのが幕末の「戊辰戦争(上野戦争)」です。

1868年、江戸城が無血開城された際、最後の将軍である15代・徳川慶喜(よしのぶ)は、新政府軍に対して恭順(反抗せず従うこと)の意を示すため、ここ寛永寺の「葵の間」に自らを謹慎(蟄居)させました。

しかし、慶喜の命を救おうと集まった旧幕府臣心の「彰義隊(しょうぎたい)」が寛永寺を拠点として立てこもったため、上野の山は新政府軍との大激戦地となってしまいます。

わずか1日で決着がついたとされるこの上野戦争ですが、新政府軍の近代兵器(アームストロング砲など)の猛火により、徳川家が200年以上かけて築き上げてきた寛永寺の豪華絢爛な伽藍(お堂の数々)の大部分が、一夜にして焼け落ちてしまいました。

💡 まとめ:現在の寛永寺に残る徳川の足跡

現在の「上野恩賜公園」がこれほど広大なのは、かつてその全域が徳川家お抱えの「寛永寺の境内」だったからです。

一族の繁栄を祈る祈祷寺として始まり、最後は徳川の終焉とともに炎に包まれた寛永寺。今でも敷地内には徳川家の家紋「三つ葉葵」が随所に見られ、通常は非公開ですが、家定や篤姫が眠る徳川家霊廟の門が、静かに歴史の重みを伝えています。徳川将軍家の栄枯盛衰をそのまま体現したお寺、それが寛永寺なのです。

増上寺との関係性

徳川将軍家の二大菩提寺である「増上寺(ぞうじょうじ)」と「寛永寺(かんえいじ)」。

この2つの寺院には、宗旨(宗派)の違い、江戸城から見た配置(風水)の意味の違い、そして眠っている将軍たちの顔ぶれの違いがあります。

増上寺と寛永寺の比較
項目増上寺(ぞうじょうじ)寛永寺(かんえいじ)
場所(現在)東京都港区芝公園東京都台東区上野桜木
宗旨(宗派)浄土宗(総本山:知恩院)天台宗(総本山:延暦寺)
江戸城からの位置裏鬼門(南西)の守護鬼門(北東)の守護
開山・開基徳川家康が江戸入府時に深く帰依3代家光が天海大僧正と共に創建
眠る将軍の数6人(2代、6代、7代、9代、12代、14代)6人(4代、5代、8代、10代、11代、13代)
現在の景観的特徴東京タワーとの対比が有名上野公園一帯に歴史遺構が点在
3つの決定的な違い
① 宗派の違い:家康のルーツか、国家鎮護の学問か
  • 増上寺(浄土宗):徳川家(松平家)の古くからの思想的ルーツです。三河(愛知県)時代から徳川家は熱心な浄土宗の信徒であり、家康が江戸に入った際、増上寺の住職に深く帰依したことから正式な菩提寺となりました。
  • 寛永寺(天台宗):政治・風水・学問のための宗派です。3代家光の時代、天海大僧正の「天台宗の教えを用いて、江戸を霊的に最強の都市にしよう」という国家規模の都市計画によって新しく建てられました。
② 配置(風水)の違い:裏鬼門の増上寺 vs 鬼門の寛永寺

江戸城を中心に置いたとき、この2つのお寺は綺麗に「対角線」上に配置されています。

  • 寛永寺は、災いがやってくる不吉な方角とされる北東の「鬼門(きもん)」に置かれ、盾として江戸を守っています。
  • 増上寺は、そのちょうど反対側である南西の「裏鬼門(うらきもん)」に置かれ、やはり江戸城に邪気が入るのを防いでいます。この2つの寺院で江戸城を挟み撃ちにすることで、徳川家は江戸の街に強固な「霊的バリア」を張っていたのです。
③ 眠っている将軍の違い:偶数代 vs 奇数代のゆるやかな法則

初代・家康(日光東照宮など)と15代・慶喜(谷中霊園)を除く13人の将軍のうち、秀忠が元々増上寺に眠っていたため、4代家綱からは「増上寺と寛永寺で交互に交互に埋葬しよう」というルールが作られました(一部例外あり)。

  • 増上寺に眠る主な将軍2代秀忠のほか、幕末に激動の時代を生きた14代・家茂(いえもち)が眠っています。家茂の正室であり、皇室から嫁いだ和宮(静寛院宮)も増上寺の夫の隣に眠っています。
  • 寛永寺に眠る主な将軍5代綱吉や、名君として名高い8代・吉宗、そして幕末の13代・家定が眠っています。こちらは家定の正室である篤姫(天璋院)が夫と共に眠っています。
💡 観光として巡るおもしろさ

近現代の象徴である東京タワーのすぐ足元に大伽藍を構え、どこか華やかな都会のオアシスとなっている増上寺

一方で、上野公園の広大な緑の中に当時の五重塔や堂宇が溶け込み、江戸の始まりから戊辰戦争の終焉までの哀愁を今に伝える寛永寺

同じ「徳川家の菩提寺」でありながら、受ける印象や歴史のグラデーションは全く異なります。東京の南北に位置するこの2寺を、江戸城(皇居)を中心に意識しながら巡ってみると、当時の徳川将軍たちの意図がより立体的に見えてきて非常におもしろいです。

徳川家光

寛永寺を創建した3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)は、260年以上続いた江戸幕府の「土台」をガチッと固め、現代の日本の文化や街並みのベースを作った、歴史上の超重要人物です。

祖父・家康が幕府を開き、父・秀忠がそれを引き継ぎ、そしてこの家光が「徳川の支配システム」を完成させました。

1. 徳川家光ってどんな人?(プロフィールと性格)

家光は、偉大な祖父(家康)のプレッシャーを受けながら、激しい後継者争いを勝ち抜いて将軍になった苦労人でもあります。

  • 生まれ・在位:1604年生まれ。20歳で第3代将軍になり、48歳で亡くなるまで約28年間、最高権力者として君臨しました。
  • 「生まれながらの将軍」:家康・秀忠は戦国時代を生き抜いて将軍になりましたが、家光は「江戸幕府が開かれた後に、将軍の跡継ぎとして生まれた最初の人物」です。就任式の際、大名たちを前に「余は生まれながらの将軍である」と言い放ち、従わない者は容赦しないという強い態度を示したエピソードは有名です。
  • 実は超インドアで繊細?:堂々とした態度の一方で、幼少期は体が弱く、吃音(言葉がスムーズに出ないこと)があり、内向的な性格でした。しかし、生涯の恩師となる天海大僧正や、乳母である春日局(かすがのつぼね)の熱烈な教育と支えによって、リーダーとしての才能を開花させていきました。
2. 日本の歴史を変えた「3つの超重要お仕事」

家光がやったことは、現代の教科書にも必ず太字で載っていることばかりです。彼が行った改革によって、日本はその後200年以上の「平和な鎖国時代」へと突入します。

1.参勤交代(さんきんこうたい)の義務化:大名たちの力を削ぐ。

全国の大名に対し、1年交代で江戸と自分の領地を行き来することを法律(武家諸法度)で義務付けました。引越し費用や江戸での生活費で大名たちにお金を使わせることで、「幕府に反乱を起こす財力」を完全に奪うことに成功しました。

2.「鎖国(さこく)」の完成:海外との窓口を制限。

キリスト教の禁止を徹底し、日本人の海外渡航や帰国を禁止しました。最終的には外国との貿易窓口を長崎の「出島」だけに制限し、オランダや中国以外の国との交際を断ち切る、いわゆる「鎖国」のシステムを完成させました。

3.キリシタン弾圧と島原の乱の鎮圧:国内の宗教勢力をコントロール。

長崎で起きた日本最大の一揆「島原の乱」を徹底的に鎮圧しました。これを機に、国民全員を必ずどこかのお寺に所属させる「寺請制度(てらうけせいど)」を作り、キリシタンを排除すると同時に、国民の戸籍をお寺に管理させました。

3. なぜ「寛永寺」を建てたのか?(天海との絆)

家光を語る上で欠かせないのが、政治・宗教の師であった天海大僧正との関係です。

家光は、歳の離れた天海を「おじいちゃん」のように慕い、週に何度も会うほど信頼していました。そんな天海の「江戸城の鬼門(北東)を仏の力で守り、徳川の政権を永遠のものにしましょう」という提案に家光が全面的に賛同し、莫大な資金と土地を投げ打って作らせたのが「寛永寺」です。

お寺を通じた「国民管理」の天才

家光は寛永寺を天台宗の最高峰に位置づける一方で、先述の「寺請制度」によって、全国のあらゆるお寺と国民を幕府の支配下に置きました。つまり家光にとってお寺(仏教)とは、個人の信仰の場であると同時に、**「日本という国を平和に統治するための最強の行政システム」**だったのです。

💡 家光の最期と、今に続く「男の約束」

家光は48歳で亡くなる際、「死んだら、遺体は寛永寺ではなく、祖父・家康のいる日光へ運んでくれ。死んだ後も家康公にお仕えする」と言い残しました。

現在、日光の「大猷院」にある家光のお墓の扉は、家康が眠る東照宮の方角(北東)を向いて、今でも少しだけ開けられていると言われています。死してなお、祖父への敬意を忘れない家光の徹底した姿勢が窺えます。

「生まれながらの将軍」としての圧倒的なカリスマ性と、恩師や祖父を徹底的にリスペクトする情の厚さ。この二面性を持った家光だからこそ、上野に広大な「寛永寺」を生み出し、激動の江戸初期を安定へと導くことができたのです。

天海大僧正

実は「寛永寺の開基者(政治・経済的支援者)」は3代将軍の徳川家光であり、天海(てんかい)大僧正は「開山者(初代住職・創設した僧侶)」にあたります。

家光が強力なパトロン(開基)となり、天海が天才プロデューサー(開山)として実務を担う――この2人の最強タッグによって寛永寺は誕生しました。

では、この寛永寺の生みの親であり、徳川家康・秀忠・家光の3代にわたって「黒衣の宰相(政権の最高黒幕)」として日本の歴史を動かした天海大僧正とはどんな人物だったのか、分かりやすく詳しく解説します。

1. 天海大僧正ってどんな人?(謎に包まれたプロフィール)

天海は、日本の歴史上でもトップクラスにミステリアスな超人です。

  • 100歳超え?の驚異的な長寿生年には諸説ありますが、亡くなったのは1643年。なんと100歳〜130歳まで生きたと言われています。平均寿命が50歳未満だった時代に、信じられないほどの長寿を全うし、亡くなる直前まで頭脳明晰で家光にアドバイスをしていました。
  • 前半生が「完全な謎」歴史の表舞台に登場したのは、50代〜60代以降のこと。それ以前の若い頃の足取りがほとんど分かっておらず、そのあまりの有能さと謎の多さから、現代でも「実は本能寺の変を生き延びた明智光秀が、名前を変えて天海になったのではないか」という有名な都市伝説(明智光秀説)が囁かれるほどです。
2. 徳川3代を支えた「天才的なプロデュース力」

天海が歴史に残る偉業を成し遂げたのは、初代将軍・徳川家康に出会ってからです。家康は天海の博識ぶりと先見の明に惚れ込み、「天海僧正は、人中の仏(人間の中の仏様)である」とまで絶賛しました。

天海が残した、現代の日本にも繋がる重要な仕事は以下の3つです。

1.家康を「東照大権現」という神にする:家康の死後の神格化。

家康が亡くなった際、天海は「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」という独自の理論を用い、家康を**「東照大権現(東の光となって国を照らす神)」**として祀ることを提案しました。これが、あの「日光東照宮」の誕生へと繋がります。

2.江戸の街を「最強の風水都市」にする:風水によるバリア。

江戸の都市計画を監修した天海は、風水や陰陽道の知識をフル活用しました。江戸城を中心に、北東の鬼門に「寛永寺(上野)」、南西の裏鬼門に「増上寺(芝)」を配置し、さらに街道や水路を張り巡らせて、「絶対に敵に攻め込まれず、災害にも強い霊的要塞」としての江戸を作り上げました。

3.寛永寺を開山し、天台宗の頂点へ:仏教の力で徳川を守る。

1625年、3代家光のサポートを受けて上野の山に「寛永寺」を開きました。京都の比叡山延暦寺に対抗する東の最高峰として位置づけ、徳川家の祈祷寺とすることで、幕府の権威を宗教的な面からも不動のものにしました。

3. なぜ家光は天海をそこまで信頼したのか?

3代将軍・家光は、天海を単なる宗教のアドバイザーとしてだけでなく、「実の祖父」のように慕っていました。

家光が病気になった際、天海は自ら熱心に祈祷を行い、自作の薬を処方して家光を何度も救ったとされています。家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)とも密に連携し、孤立しがちだった若き家光の精神的な支えになり続けました。

寛永寺の建造にあたっても、家光は天海の言うことであれば「何でも用意しよう」と、資金や広大な土地を惜しみなく提供したのです。

💡 天海大僧正の遺言と、現代の上野公園

天海がこれほどの長寿を保ち、大きな仕事を成し遂げられた秘訣は、彼の残した有名な言葉(養生訓)に表れています。

「気は長く、勤めは堅く、色うすく、食細くして、心広かれ」

(せっかちにならず、仕事は真面目に、欲はほどほどに、ご飯は腹八分目、いつも広い心を持っていなさい)

この究極の健康法を実践した天海は、家光に見守られながら寛永寺でその大往生を遂げました。死後、朝廷から「慈眼大師(じげんだいし)」という最高位の称号(大師号)を贈られています。

彼がデザインした上野の山(寛永寺)は、徳川の聖地となり、巡り巡って現在の「上野恩賜公園」や不忍池として、今もなお多くの人々に愛される場所となっています。江戸の街のグランドデザイナー、それが天海大僧正という人物です。

東叡山全景
寛永寺本堂
根本中堂
縁起 東叡山寛永寺
増山雪斎博物図譜関係資料 虫塚碑
銅鐘
旧本坊表門・根本中堂 鬼瓦
慈海僧正墓

御隠殿坂

最寄り駅>>鶯谷駅(JR東日本)

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