
競馬ファンなら一度は訪れてみたい場所——
それが横浜にある旧根岸競馬場です🏇✨
かつては横浜競馬場として数々のビッグレースが開催され、日本競馬の発展を支えた歴史的な競馬場でした。
現在は競馬場そのものは残っていませんが、「旧根岸競馬場 一等馬見所」と呼ばれる観覧施設が今もその姿を留めています🏛️
実際に目の前に立つと、その建物の立派さに驚かされます。
昭和初期の建築とは思えないほど重厚で美しく、当時の華やかな競馬文化を想像させてくれます✨
そして何より胸が熱くなるのは、この地で日本初の三冠馬・セントライトが活躍していたこと🐎
競馬新聞や資料で何度も目にしてきた名馬たちが、かつてこのコースを駆け抜けていたと思うと感慨深いものがあります。
旧根岸競馬場は、単に「昔、横浜にも競馬場があった」という話ではありません。
ここはまさに、日本競馬が大きく発展していく重要な出発地点。
競馬の歴史を知るほどに、その価値の大きさを実感できる場所でした🏇✨📜
旧根岸競馬場 一等馬見所
【住所】〒231-0856 神奈川県横浜市中区簑沢13−283
※Geminiによる解説
神奈川県横浜市にある横浜競馬場(旧根岸競馬場)の歴史と、現在の観光としての魅力についてご紹介します。
歴史:史実に基づいた有名な出来事
旧根岸競馬場 一等馬見所
旧根岸競馬場 一等馬見所クリックするとサイドパネルが開き、詳細が表示されます(観覧スタンド)は、日本の近代競馬の幕開けと激動の時代を象徴する大変貴重な歴史的建造物です。
- 日本初の本格的な洋式競馬場の誕生:幕末の1866(慶応2)年、江戸幕府が外国人居留民からの要請を受け、根岸の地に日本初の常設・本格的な洋式競馬場として「根岸競馬場」を建設しました。翌1867年に最初のレースが開催され、これが日本における近代競馬の礎となりました。
- 名建築家J・H・モーガンによる設計:1923年の関東大震災によってそれまでの木造スタンドが崩壊したため、1929(昭和4)年にアメリカ出身の高名な建築家J・H・モーガン(横浜の山手111番館やベーリック・ホールなども設計)により、この「一等馬見所」が再建されました。日本初の鉄骨鉄筋コンクリート造の競馬観覧施設であり、日本の競馬場建築に極めて大きな影響を与えました。
- 戦時下の閉場と軍事利用:太平洋戦争が激化する中の1943(昭和18)年、競馬場としての歴史に幕を閉じ、施設は旧日本海軍に徴用されました。一等馬見所の広大な内部は印刷工場などとして利用されていたと伝えられています。
- 戦後の接収から現代への保存:終戦後は米軍に接収され、一帯は「根岸競馬場地区」として米軍の管理下に置かれました。その後、1969年から段階的に日本へ返還され、現在は貴重な遺構としてその姿を留めています。2009年に国の「近代化産業遺産」に認定され、さらに2025年1月には「横浜市認定歴史的建造物」に指定され、後世に残すための保存・活用が進められています。
観光としての魅力
根岸森林公園
現在は根岸森林公園クリックするとサイドパネルが開き、詳細が表示されますの一部として美しく整備されており、歴史の息吹を感じながらリフレッシュできる横浜屈指の隠れた名所となっています。
- 「廃墟の美」を醸し出す圧倒的な建築美:安全上の理由から内部への立ち入りは禁止されており、外観のみの見学となりますが、蔦が絡まる巨大なコンクリートの壁面と、上部に佇む3つの丸窓付きのエレベーター塔は圧巻の存在感です。青空や豊かな緑を背景に、まるで中世の古城やヨーロッパの遺跡を彷彿とさせるミステリアスな佇まいは、写真映えするスポットとして多くの人を魅了しています。
- 豊かな自然と開放的なロケーション:一等馬見所が立つエリアは高台に位置しており、みなとみらいの街並みから、天気の良い日には丹沢の山並みや富士山までを見渡せる絶好の見晴らしを誇ります。園内には広大な芝生広場が広がり、春には約400本の桜が咲き誇る横浜有数の桜の名所、初春には梅林など、四季折々の美しい景観が楽しめます。
馬の博物館
- 合わせて巡りたい「馬の博物館」とポニーセンター:公園の敷地内には、公益財団法人馬事文化財団が運営する馬の博物館クリックするとサイドパネルが開き、詳細が表示されますがあり、馬と人類の歴史や競馬文化に関する多彩な資料が展示されています。隣接するポニーセンターでは本物の馬たちが飼育されており、歴史遺構を見学した後に、実際の馬と触れ合いながら競馬の歴史をより深く学ぶことができます。
横浜競馬場で開催されていたビッグレースと歴史的名馬たち
横浜競馬場(根岸競馬場)は、日本の近代競馬の「揺籃の地(ようらんのち:物事の発展する初めの場所)」として、現在のG1レースの基盤となる最高峰のビッグレースが開催され、歴史的な名馬たちがその駿脚を競っていました。
横浜競馬場が誇った2大ビッグレース
現在の競馬シーンにも直結する、当時の「最高峰」と「クラシック(3歳馬最高峰の競走)」の2つの大レースが横浜で開催されていました。
1. 帝室御賞典(ていしつごしょうてん)
- 現在のレース:天皇賞(春・秋)
- 1905(明治38)年、明治天皇から「エンペラーズカップ(皇帝陛下御賞盃)」として立派な銀製の花盛器が下賜(かし:身分の高い人から頂くこと)されたことから始まった、日本で最も歴史と権威のある伝統のレースです。
- 各競馬場で年に数回行われましたが、そのルーツは1880(明治13)年に根岸で行われた「MIKADO’S VASE RACE(ミカド・ベイス・レース)」にまで遡ります。当時のホースマンやファンにとって、このレースを制して「御賞典馬」となることは最高の栄誉でした。
2. 横濱農林省賞典四歳呼馬(よこはまのうりんしょうしょうてんよんさいよびうま)
- 現在のレース:皐月賞(G1)
- 1939(昭和14)年、イギリスの伝統レース「2000ギニー」を模範として、もっともスピードのある優秀な若駒(当時は数え年で4歳、現在の3歳馬)を決めるため、横浜競馬場で創設されました。これが現在の「皐月賞」の第1回大会です。
横浜の地を沸かせた歴史的名馬たち
横浜競馬場が輩出、あるいは激戦を繰り広げた名馬の中でも、特に歴史的意義の大きい3頭をご紹介します。
セントライト:日本競馬史上「初代」の三冠馬
- 横浜での実績:1941(昭和16)年、第3回「横濱農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)」を制覇。
- 日本のクラシック三冠馬(皐月賞・日本ダービー・菊花賞をすべて制した馬)の栄えある第1号です。岩手県の小岩井農場で生まれたこの黒鹿毛の大器は、横浜の第1冠目を快勝すると、続く東京の日本ダービー、京都の菊花賞(当時は京都農林省賞典四歳呼馬)も圧倒的な強さで制し、不滅の金字塔を打ち立てました。三冠馬の中で、唯一横浜の地を走った伝説の名馬です。
ロックパーク:単勝「わずか1票」の奇跡を起こした初代王者
- 横浜での実績:1939(昭和14)年、記念すべき第1回「横濱農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)」の優勝馬。
- 記念すべき第1回大会の勝ち馬ですが、実はレース前は脚部不安を抱えており、まったく期待されていませんでした。なんと単勝式の馬券が全投票のうち「わずか1票」しか売れておらず、ブービー(最下位から2番目)人気という超穴馬だったのです。
- しかし、レースが始まると激しい泥んこ馬場を力強く駆け抜け、見事に優勝。当時の配当金(オッズ)は法定の上限(特払い)に達するという、競馬史に残る大波乱のドラマを横浜の地で演じました。
ミラ:明治の競馬界を席巻した伝説の外国産牝馬
- 横浜での実績:1895(明治28)〜1898(明治31)年にかけて横浜のレースで無双。
- 明治中期、オーストラリアから輸入された美しい栗毛の牝馬(ひんば:メス馬)です。当時はまだ外国人居留民が中心となって競馬が行われていた時代でしたが、ミラはその圧倒的なスピードで横浜のレースを総なめにし、通算17戦14勝(2着3回)という驚異的な成績を残しました。彼女の強さは当時の人々に強烈な印象を与え、日本の競走馬のレベル向上を大きく促すきっかけとなった存在です。
歴史の足跡を感じるスポット 現在、旧根岸競馬場の敷地内にある「根岸記念公苑(馬の博物館)」の前には、昭和の高名な五冠馬シンザンや、幻の名馬トキノミノルのブロンズ像が美しく佇んでいます。これらは直接ここで走った馬ではありませんが、日本の競馬文化の発展を支えた根岸の功績を称える象徴として、今も訪れる競馬ファンや歴史愛好家を静かに迎えています。
横浜競馬場が閉鎖された理由
横浜競馬場(根岸競馬場)が競馬場としての歴史に幕を閉じ、閉鎖に追い込まれた最大の理由は、太平洋戦争の勃発にともなう「軍事上の都合(防諜と徴用)」です。
華やかな娯楽の場から一転、国家の戦時体制に巻き込まれていった閉鎖までの経緯を3つの段階に分けて詳しく紐解きます。
1. 軍事上の致命的な弱点「防諜(ぼうちょう)上の問題」
閉鎖の決定打となったのは、横浜競馬場が持つ「立地」でした。 競馬場は横浜の小高い丘(根岸の高台)に位置しており、見晴らしが非常に良いロケーションを誇っていました。しかし戦時下において、この絶景が致命的な弱点となります。
スタンドの上層階や高台からは、当時の日本海軍の超重要拠点であった**「横須賀軍港」が一望できてしまった**のです。
東京湾を出入りする軍艦の動きや、航空廠(こうくうしょう:飛行機の工場)、海軍の演習の様子などが詳細に丸見えになってしまうため、軍の機密保持(防諜)の観点から「これ以上、不特定多数の人間が集まる娯楽施設として開放しておくわけにはいかない」と軍部から強く危険視されました。
2. 国家による「軍事徴用」と施設の転用
戦争の激化にともない、1941(昭和16)年には日本レース・クラブ(公認競馬の主催団体)が国によって強制的に解散させられ、資産も国家に買い上げられました。
そして1942(昭和17)年10月の開催を最後に競馬は完全に中止され、翌1943(昭和18)年に正式に閉鎖。敷地と施設はすべて旧日本海軍に徴用されることになりました。 かつて多くのファンで賑わった「一等馬見所」の巨大なスタンド内部は、海軍の印刷工場や資材置き場、文官の宿舎などへと転用され、競馬場としての機能を完全に失いました。
3. 戦後の「米軍接収」と返還の遅れ
「戦争が終われば競馬が再開されるのでは」という期待もありましたが、終戦直後の1945(昭和20)年、さらなる転機が訪れます。 連合国軍(GHQ)の進駐にともない、今度はアメリカ軍によって競馬場一帯が丸ごと接収されたのです。
敷地内には米軍の家族住宅(根岸住宅地区)やヘリポート、ゴルフ場などが建設され、長きにわたり日本人が立ち入れないエリアとなりました。1969年以降、段階的に日本への返還が進められましたが、すべての敷地が実質的に返還されたのは戦後から長い年月が経った平成の時代になってからのことでした。
競馬場が「移転」ではなく「消滅」した理由
戦後、同じく軍に徴用されていた「東京競馬場(府中)」や「中山競馬場」などは無事に競馬場として再開を果たしました。しかし、なぜ横浜だけが再開されなかったのでしょうか。
それは、返還が始まった時期(昭和40年代)には、すでに周辺の宅地化が劇的に進んでおり、近代競馬の開催に必要な広大な土地(厩舎群や巨大なコースなど)を維持・再整備することが実質的に不可能になっていたからです。
結果として、かつての広大な馬場は「根岸森林公園」という市民の憩いの場に生まれ変わり、モーガンが設計した美しいスタンドだけが、激動の昭和史を物語る遺構として今に遺されることになりました。

















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