【小石川後楽園・文京区】⚾ 東京ドームから水戸黄門へ!?「後楽園」の歴史🏯

小石川後楽園

東京ドームの前身といえば、「後楽園球場」。
かつて王貞治や長嶋茂雄が活躍した、日本プロ野球の歴史を語るうえで欠かせない球場です。
ところで、この「後楽園」という名前。
近くにある「小石川後楽園」から来ているのでは?

小石川後楽園は、江戸時代に水戸徳川家が造った大名庭園です。
初代水戸藩主・徳川頼房が造営を始め、二代藩主の徳川光圀の時代に完成しました。
徳川光圀といえば、あの「水戸黄門」でおなじみの人物。
まさか東京ドームの歴史をたどっていたら、水戸黄門が登場するとは思いませんでした。

「後楽園」という名前は、中国の古典『岳陽楼記』にある、「先憂後楽(せんゆうこうらく)」という言葉に由来します。
これは、天下の人々より先に心配し、人々が楽しんだ後に自分も楽しむという意味です。
水戸光圀の時代、中国の儒学者・朱舜水の意見を取り入れて「後楽園」と名付けられたと伝わっています。
単に「後から楽しむ庭園」という意味ではなかったのですね。

こうして歴史をたどってみると、東京ドーム → 後楽園球場 → 小石川後楽園 → 水戸光圀と、思いがけない人物につながりました。
王貞治、長嶋茂雄、そして水戸光圀。
まさか、この三人の名前が一つの話の中でつながるとは。
歴史というのは、本当に面白いものです。
普段何気なく使っている地名や施設の名前にも、調べてみると思いがけない由来が隠れています。

🏯 東京ドームを訪れて、最後は水戸黄門にたどり着く。
今回もまた、歴史の意外なつながりを知ることができました。

小石川後楽園

【住所】〒112-0004 東京都文京区後楽1丁目6−6

【Wikipedia】

※Geminiよる解説

東京都文京区後楽にある小石川後楽園は、江戸時代初期に造営された水戸徳川家ゆかりの大名庭園であり、国の特別史跡および特別名勝の二重指定を受けている歴史的名所です。

歴史と主な出来事

  • 水戸徳川家上屋敷の庭園として誕生寛永6年(1629年)、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房が江戸上屋敷の庭園として造営を開始しました。その後、2代藩主の徳川光圀(水戸黄門として知られる)の代に完成しました。
  • 朱舜水の助言と「後楽園」の命名光圀は明からの明朝遺臣である儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を招聘して助言を仰ぎ、中国風の意匠を積極的に採り入れました。名称の「後楽園」は、中国の政治家・范仲淹の「岳陽楼記」にある名言「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽に遅れて楽しむ」(士は人より先に憂い、人より後に楽しむべきであるという教え)から命名されました。
  • 幕末から明治維新の激動期幕末には、15代将軍・徳川慶喜の父である水戸藩主・徳川斉昭が園内に洋式大砲の発砲練習場や製鉄炉を設けるなど、時局に応じた利用がなされました。明治維新後は陸軍省の管轄となり、敷地の一部には東京砲兵工廠が設置された歴史もあります。

観光としての魅力

  • 和華折衷の回遊式泉水庭園琵琶湖に見立てた「大泉水」を中心とした日本庭園の構図の中に、円月橋や西湖の堤といった中国の名勝を模した景観が巧みに組み合わされており、異国情緒と伝統的な日本庭園美が融合した独特の景観を楽しめます。
  • 四季折々の豊かな自然表現
    • 春: 樹齢約70年を超える枝垂れ桜やハナショウブが咲き誇ります。
    • 秋: 庭園奥の京都・嵐山に見立てた「通天橋」周辺を中心に、モミジやハゼノキが鮮やかに色づく都内有数の紅葉スポットとなります。
    • 冬〜初春: 徳川光圀ゆかりの「梅林」に紅白の梅が咲き揃い、早春の訪れを告げます。
  • 都市の近代建築と歴史庭園の対比すぐ隣接する東京ドームや高層ビル群を背景に、江戸時代の面影をそのまま残す緑豊かな庭園が広がるため、都市と歴史空間が織りなす対比も魅力の一つです。

水戸藩

水戸藩は、徳川家康の子である頼房を祖とし、尾張藩・紀州藩と並んで「徳川御三家」の一つに数えられた名門藩です。石高(約35万石)や官位の面では尾張・紀州に及びませんでしたが、江戸幕府の体制や幕末の歴史において極めて特殊で重要な役割を果たしました。

1. 江戸における特殊な役割:「定府(じょうふ)」と副将軍

通常の大名は国元(領地)と江戸を1年おきに行き来する「参勤交代」が義務付けられていましたが、水戸藩主はそれを免除されていました。

  • 常に江戸に常駐: 藩主は水戸と領地を行き来するのではなく、江戸(現在の小石川後楽園一帯にあった上屋敷など)に常に詰めている「定府」という体制をとりました。
  • 「副将軍」という通称: 将軍の側近として幕政に意見し、いざという時には将軍を補佐する立場とみなされたため、世間からは敬意を込めて「水戸の副将軍」と呼ばれることもありました(ただし、公式な役職名ではありません)。
  • 江戸防衛の要: 本拠地である常陸国(現在の茨城県)は江戸の北東(裏鬼門)に位置し、水戸藩は水戸街道を通じて江戸を守る文字通りの「抑え」としての防衛拠点でもありました。
2. 学問と思想の中心地:「水戸学(みとがく)」の誕生

水戸藩の最大の特徴の一つが、学問を非常に重んじる風土でした。

  • 『大日本史』の編纂: 2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)が始めた『大日本史』の編纂事業は、日本の歴史を正統的な皇統の視点からまとめる一大事業であり、長年にわたり水戸藩のアイデンティティとなりました。
  • 尊皇攘夷運動への影響: この『大日本史』の編纂を通じて育まれた「天皇を敬い、外国の侵略を退ける」という水戸学の思想は、やがて幕末の「尊皇攘夷運動」の理論的支柱となり、吉田松陰や西郷隆盛など、多くの維新の志士たちに多大な影響を与えました。
3. 幕末の激動を動かした名君・徳川斉昭

幕末期に登場した9代藩主・徳川斉昭(なりあき)は、水戸藩の存在感を再び天下に知らしめました。

  • 藩校「弘道館」を創設して文武両道の教育を徹底し、藩の近代化や海防の強化を急ぎました。
  • 彼の改革や強硬な攘夷論は幕政中枢(老中・阿部正弘など)をも動かしましたが、同時に幕府との政治的対立や藩内の激しい内紛(天狗党の乱など)を引き起こす原因ともなりました。
まとめ:水戸藩が江戸時代に残した足跡

水戸藩は、「御三家」という最高峰の家格を持ちながらも、常に江戸の近く(あるいは内部)にあって幕府の行く末を案じ、時には批判精神を持って「理想の国家・武士のあり方」を追求し続けた藩でした。

皮肉にも、その水戸学がもたらした「尊皇」の思想が、結果として徳川幕府を倒す原動力(倒幕・明治維新)へと繋がっていった点に、この藩の歴史のドラマチックさがあります。

徳川慶喜

徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、260年続いた江戸幕府の第15代将軍であり、同時に「江戸幕府を自ら終わらせた最後の将軍」です。

江戸幕府と慶喜の関係性は、単に「最高の権力者と組織」という関係にとどまらず、崩壊寸前だった幕府を延命・再編しようと奮闘した末、自らの手で幕を引く政治的決断を下したという非常にドラマチックな間柄でした。

1. 救世主としての期待と就任までの曲折

慶喜は幼少期から英明で知られ、「徳川家康の再来」と評されるほど頭脳明晰でした。

  • 将軍就任への逆風と棚上げ第13代将軍・家定の後継者問題では、薩摩藩や越前藩などの改革派から「この危機を乗り切れるのは慶喜しかいない」と強く推されました(一橋派)。しかし、幕府の保守派(大老・井伊直弼ら)に警戒され、一度は政権中枢から排斥されます。
  • 将軍後見職としての重用井伊が「桜田門外の変」で倒れた後、慶喜は復権して第14代将軍・家茂(いえもち)を支える「将軍後見職」に就任。京都に留まり、朝廷や薩摩・長州などの強大な雄藩との調整役という、幕府の最も難しい舵取りを任されました。
2. 将軍就任と「幕府の近代化改革」

第14代将軍・家茂が第二次長州征討の渦中で若くして病死すると、慶喜は周囲から強く望まれる形で、1866年に第15代将軍に就任しました。

将軍となった慶喜は、衰退していた幕府体制を立て直すため、先進的な改革を実施します。

  • フランス式の軍制改革フランス公使ロッシュの協力を得て、陸海軍の装備や組織を西洋式に刷新しました。
  • 中央集権化の推進幕府の役職を西洋風の「陸軍総裁」「海軍総裁」「外国事務総裁」といった省庁制に近い形へ刷新し、将軍を中心とする近代的な強権政府を作ろうと試みました。

慶喜の狙いは、単なる「旧来の幕府の維持」ではなく、「徳川家をトップとする新しい近代国家の建設」でした。

3. 歴史的決断:「大政奉還」と幕府の終焉

慶喜の構想に対し、倒幕を目指す薩摩藩(西郷隆盛・大久保利通ら)や長州藩は「武力で幕府を潰す」機会をうかがっていました。

これに対し、慶喜は先手を打つ形で極めて大胆な政治的決断を下します。

  • 政権の返上(大政奉還)慶喜は慶応3年(1867年)10月、政権(統治権)を天皇にお返しする「大政奉還」を行いました。これにより、江戸幕府という政治組織は正式に幕を閉じました。
  • 慶喜の計算朝廷には国を治める実務能力や資金がないため、政権を返上しても「最大の土地と財力を持つ徳川家(慶喜)が新政府の議長(首班)に選ばれるはずだ」という計算がありました。武力衝突を避けつつ、実質的な権力を握り続けるための高度な政治策略でした。
4. 敗北と身の引き方

しかし、薩摩藩らはこの作戦を打ち破るため、「王政復古の大号令」を発令して徳川家から官位と領地を完全に奪うことを宣言。これに激怒した旧幕府軍と新政府軍の間で「戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)」が勃発します。

  • 戦線離脱と従順な姿勢鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、慶喜は味方の兵を大坂城に残したまま、夜間に船で江戸へ撤退しました。この行動は当時「敵前逃亡」とも批判されましたが、慶喜自身は「朝廷(天皇)に弓を引く意図はない」ことを示すため、徹底した謹慎生活に入りました。
  • 江戸無血開城へ慶喜が徹底恭順の姿勢を崩さなかったことが、勝海舟と西郷隆盛による「江戸城無血開城」につながり、江戸の街が焼け野原になる危機や徳川家の断絶を回避することに成功しました。
まとめ:江戸幕府と徳川慶喜の関係
局面慶喜の立場と幕府との関係
就任前危機に瀕した幕府を救う「最後の切り札」として期待される
将軍時代組織を近代化・再編し、徳川中心の強権政府を目指す
大政奉還自らの手で260年の幕府の歴史に終止符を打ち、武力衝突を回避しようとする
幕末最終期朝廷への恭順を貫くことで、江戸の壊滅と徳川家の滅亡を防ぐ

徳川慶喜と江戸幕府の関係は、「衰退する幕府の最高責任者として立て直しを試み、最後は組織そのものを解体することで徳川家の存続と日本の内戦拡大防止を果たした関係」と言えます。

小石川

「小石川(こいしかわ)」という地名の由来は、文字通り「小石や砂の多い川が流れていたこと」に由来します。

1. 地名の由来:川に小石や砂利が多かったこと

かつて、文京区の小石川台地と白山台地の間(谷間)を南北に流れる川がありました(旧・谷端川/千川などと呼ばれる川)。

この川は周囲の高台から水が集まる小川でしたが、川底や流れる水の中に小石(礫・砂利)が多く含まれていたことから、その川自体が「小石川」と呼ばれるようになり、やがて周辺の土地を指す地名へと広がっていきました。

古くは室町時代の文献や和歌にも「小石川」の名称が登場しています。

2. 「礫川(れきせん)」という別名

「小石川」は漢語的に「礫川(れきせん)」と表現されることもありました(「礫」も小石や砂利を意味します)。

現在でも文京区内には「礫川公園(れきせんこうえん)」や「礫川小学校」といった施設名・校名が残っており、これは小石川の古称・別称に由来しています。

現在の「小石川」という川

地名の由来となったかつての川(谷端川・千川)は、近代以降の都市開発や治水工事によって暗渠化(地下化)や埋め立てが行われたため、現在は地上からその流れを見ることはできません。

しかし、川自体は消滅したものの、「小石川後楽園」や「小石川植物園」、そして現在の文京区小石川という町名として、その歴史的な名前が今も受け継がれています。

後楽園

小石川後楽園の「後楽園」という名称は、中国(宋代)の政治家・文人である范仲淹(はんちゅうえん)が著した詩文『岳陽楼記(がくようろうき)』の一節に由来しています。

由来となった一節

「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」

(天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽に遅れて楽しむ)

この教えから「後楽(人より後に楽しむ)」という言葉が取られ、庭園の名として授けられました。

名前の意味と込められた精神

この言葉は、名君やリーダー(士)たる者が持つべき政治的政治倫理・心得を示したものです。

  • 「国や民が苦しんだり不安を抱えたりしている時は、誰よりも先に心を痛めて対策を講じる」
  • 「民が豊かになり安寧を得てから、はじめて自分も楽しむ」

つまり、「後楽」とは単なる遊興のための庭園ではなく、「常に民や天下の平穏を最優先にし、自分自身の楽しみは後回しにする」という「士当先憂後楽(士は当に先に憂いて後に楽しむべし)」の儒教的な政治理念(憂国の精神)を象徴しています。

命名の経緯

寛永6年(1629年)、水戸徳川家初代藩主の徳川頼房が庭園として造営を開始し、2代藩主の徳川光圀(水戸黄門)の代に完成しました。

光圀は明からの遺臣であり儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)を師として招き、庭園の設計や思想について意見を仰ぎました。その際、朱舜水が『岳陽楼記』の精神をもとに助言し、光圀がこれを深く感じ入って「後楽園」と命名しました。

ここから下は広告です >>>

投稿者プロフィール

Yutaka-S
トップへ戻る